novel

習作002「金木犀」

 
 央佳ひさよしが目を覚ましたのは、昼食には少し早い時間である。シフトの関係で、平日ではあるが仕事は休みだ。近所の幼稚園から、子どもたちのはしゃぐ声が微かに聞こえてくる。
 締め切った部屋の空気を入れ換えようと、寝室の窓を開けた。見事な秋晴れ。園児たちの声が大きくなる。同時に甘い匂いが漂ってきた。
 どこか懐かしく、重くまとわりつくような匂いに、気がとがめるような気分になる。

 堪らず央佳は窓を閉めた。だが、部屋の中はすでに甘い匂いで満ちているような気がした。

 異様に長かった夏もようやく終わった。急に気温が下がり、温かい食事が欲しくなる。冷凍してある食パンをトーストにして、インスタントのコーンポタージュでも付けようかと考えながらキッチンに入った。
 電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。湯を沸かしている間に、冷凍庫に一枚だけ残っていた食パンにマーガリンを塗りスライスチーズを載せてトースターに入れる。コーンポタージュは春の終わり頃に買ったものが残っているだろうと思い、戸棚を探したが見つからない。仕方なくコーヒーを淹れたところでトーストが焼き上がった。

 簡単な食事を済ませた央佳は、煙草を吸うためにベランダに出た。一昨年おととしの夏の終わりに初めて煙草を吸った時からの習慣だ。漂う甘い匂いに、ラム酒のフレーバーが混じる。


 泊まりに来ていた和泉いずみは、風呂上がりの煙草を吸うためにベランダに出た。央佳に遠慮したのか、あるいはそれが和泉の習慣だったのかもしれない。幼い子どもがいるのだと聞いたことがあった。
 チューハイの空き缶を灰皿代わりにして夜風に当たっている和泉を、央佳はいつもより遠く感じた。ガラス一枚隔てた別世界。現実感を失いかけた央佳は、とっさに窓枠に手を伸ばした。
「それ美味しいの」
 半分だけ開けた窓から顔を出した央佳は、煙草の煙に混じって甘い匂いを感じた。火照った頬をひんやりとした夜気が冷ます。
 央佳の唇に、和泉は無言でフィルターを近づける。浅く咥えて、ストローでジュースでも飲むように強く吸う。思い切り噎せた央佳に、和泉は低く笑い声を上げた。
「初心者はもっと軽いのがよかったか」
「これが良い」
 和泉の胸ポケットから勝手に煙草を取り出し、フィルムの間に挟んであるライターを拝借する。見よう見まねで火を付けるが、央佳にはこれでよいのか分からない。
「火ぃ付けながら吸うんだよ」
 今度は慎重に息を吸う。煙草の先がぽっと赤く灯った。央佳は洋酒のような風味を感じた。


 一本吸い終わった央佳は室内に戻った。薄手のカットソーを一枚着ていただけだったせいで、身体が少し冷えている。央佳は寝室に入り、ベッドの側に脱ぎ散らかしていたパーカーを羽織った。ついでに脱ぎっぱなしにしていた靴下を拾って洗面所に行き、洗濯機に放り込む。溜めてしまっていた洗濯物もまとめて洗う。
 唸る洗濯機の横で歯を磨きながら、そろそろ冬物を出しておこうと考えた。

 クローゼットの奥を引っかき回す。厚手のパーカーやニットを探したが、あると思っていた枚数よりだいぶ少ない。少し考えて、春に服の整理をしたことを思い出した。
 ひと冬を過ごすのに足りないほどではないが、何着か買い足したい。一つ隣に駅前にあるショッピングセンターは、行ってみようと思いつつもその機会が無かった。せっかくだからそこで買い物をするのも良いなと央佳は思った。

 平日の昼過ぎ、大型スーパーを中心に多数のテナントが入るショッピングセンターは、それほど混雑はしていないようだ。ファストファッションの有名店を避けつつ、建物内を見て回る。下町の住宅街にあるせいか、近所の主婦らしい客が目立つ。母親に手を引かれた幼い子どもがぐずっているのを見かけて、央佳は目をそらせた。なんとなく気が重くなる。
 流行に疎い央佳は、手頃な価格帯の店をチェックしながら、一番無難そうな服が置いてあった店に入った。シンプルなセーターを二着、ジップアップ式と被り物のパーカーを一着ずつ購入する。
 ボトムは別の店で選ぼうと、再びショッピングセンター内を歩く。
「あ」
 雑貨屋の店先に陳列されていた手袋に目を惹かれる。色違いで二つ取ってレジに向かった。

 少しだけ買うつもりが、結局大きな紙袋が二つ分になった。
 休憩のためカフェに立ち寄る。コーヒーに口を付けてから、スマーフォンでメッセージを送る。サンドイッチに手を伸ばそうとしたところでスマートフォンが鳴った。すぐに来た返信に、央佳は小さく笑んだ。


「実はさあ」
 ベランダで並んで煙草を吸っているときだった。和泉がごく軽い調子で言い出したが、続く言葉はなかなか発せられなかった。
 洋酒のフレーバーに混じって、甘い匂いが二人の間を漂っている。ベランダに出てすぐ、「金木犀か」と和泉が呟いていた。
 央佳はアルミの灰皿の上で、煙草を親指で弾いた。つられるように和泉も灰を落とす。
「別れてくれって、言われてるんだ」
「奥さん、に?」
 言ってから、当たり前のことを聞いてしまったと央佳は思った。
「うん」
「どうしてか、聞いても良い?」
 和泉は頷いたが、煙草を咥えたなり黙っていた。央佳も、重ねて問うのは躊躇われて、やはり黙って煙草を吸った。
「あいつが浮気を疑ってんのは、なんとなく気づいてたんだけど。証拠もないのに疑うのはもう疲れたからって」
 和泉が再び口を開いたのは、室内に戻ってからだった。和泉が央佳の家に来るとき、残業や友達の家で飲み会をすると嘘をついていると和泉が言う。央佳も、そのことには以前から気がついていた。
「友達って言うのは、まあ、嘘じゃ無いんじゃない」
 深刻な調子にならないように注意しながら央佳が言う。
 男同士で、特に何かを伝え合ったわけではない。央佳は、確かめて和泉から否定されることが怖かった。きっとそれは、和泉も同じだったのだろうと思う。
「俺にとったら嘘と一緒だよ」
 和泉が離婚が成立したと伝えてきたのは、その翌週だった。
 二人にとって初めてのキスは、洋酒のフレーバーがした。そのフレーバーがラム酒だということは、しばらく後に和泉が教えてくれた。


 カフェで時間を潰した央佳が自宅の最寄り駅に着いたのは、帰宅ラッシュが始まる頃だった。改札を出たところで待っていると、すぐに和泉の姿が見えた。
「和泉さん、お帰り」
 駆け寄って声を掛ける。
「あれ、ただいま」
 驚いた和泉が挨拶を返して、荷物を見る。
「買い物か」
「うん。帰りが同じくらいになりそうだったから待ってた」
 駅を出て並んで歩く。和泉が央佳の荷物を持とうと手を伸ばす。央佳はさりげなく反対の肩に荷物をかけ直して躱した。無言の攻防に、二人揃って吹き出す。
「なんだよ、ずいぶんニヤニヤして」
 和泉の問いかけに、央佳は小さく首を振った。
「ううん、何でもない」
「そうか?」
「何でもないんだけど、何でもないことが嬉しくて。一緒に帰るのも初めてだし」
 二人でこの町に引っ越してきたのが、春の初め。
「変なヤツだな」
 そう言って和泉も笑う。
「あ、金木犀だ」
 央佳が不意に大きな声を出した。ここのところずっと気になっていた甘い匂いの正体を思い出したのだ。始めて煙草を吸った日も、和泉の気持ちを改めて知った日も、初めてキスをした日も、金木犀の匂いがしていた。
「なんだ、今頃気がついたのか。少し前からすっげえ匂ってるだろ」
「そうだっけ」
 央佳がとぼけて、和泉の手を握った。それを和泉が握り返してくる。
 これからは金木犀の香りを好きになれそうな気がした。
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