novel

雨と記憶と感傷と

 傘に雨粒が当たるかすかな音がする。柔らかくまとわりつく霧雨は衣服をしっとりと湿らせていく。
 こんな雨の夜は苦手だ。
 薄暗さと、ノイズにも似た雨音。
 それらのせいか、普段は意識すらしない記憶が浮かび上がってくる。

 子どもの頃、友人と遠出をした帰りのバス。
 好きなアイドルの話で盛り上がるクラスメイトの輪に入れず、ポツンと座っていた教室。
 寝食を忘れて読んだ小説。
 幼稚園の校舎にあった廊下の傷。
 いつのことか、どこであるかすら定かではない風景。

 記憶は、どのようなものでも私を感傷的で憂鬱な気分にさせる。

 帰宅する時間帯に雨になることは分かっていたのだから、仕事など休んでしまえばよかったのだ。自分一人いなくても業務は滞ることは無い。人員にそう余裕があるわけではないが、自分の役割など小さなもので、誰かが代わりを務めることくらい容易なはずだ。むしろ、書類のコピーを一枚取るのにも手間取る自分がいない方が捗るだろう。

 けれど、休む度胸などない。グダグダ考えつつも、真面目に時間に余裕を持って出社してしまうのだ。仕事をして収入を得なければ生きていけない。働いていてさえ、必要なものを手に入れるだけでいっぱいいっぱいなのだ。

 沈んでいく気分のせいで、足取りも重くなっていく。早く家に帰って、布団をかぶって好きな音楽を聴きながら好きな本でも読みたいという気持ちとは裏腹に、歩みは遅くなる。
 遅くなるほど、服は湿気て重くなる。傘の差し方が下手なのか、歩き方が悪いのか知らないが、こんな弱い雨でも膝から下はずいぶん濡れてしまっている。

 いっそ、大雨になれば良いのだ。
 余計な思考など洗い流すほどの雨に打たれれば、気分は晴れるかもしれない。
 それともずぶ濡れになって、もっと惨めな思いをするだけだろうか。

 いつか、小雨が降っていた、おそらく学校からの帰り道。分かれ道で雨に濡れたまま友人と立ち話をしていたことがあった。濡れた冬服が重くて早く帰りたかったけれど、話をやめるきっかけを見つけることが出来ずに、上の空で友人の口の動きを見ていた。結局、近所の八百屋の女将さんが何か言って、その日はやっと解散になったのだった。
 家に帰ると母親に、明日着ていく制服はどうするのだだの、風邪を引いたらどうするのだだの小言を言われたのだ。
 次の日友人は、さっぱりとした制服を着ていた。お下がりの予備があるのだと言って悪気なく笑っていた。そんなものは持っていない自分は、乾ききらない制服を着て、一日寒い思いをした。一言、雨だし今日はもう帰ろうと言えば、そんな思いはせずに済んだはずなのだ。

その友人とも、疎遠になった。年賀状だけは一方的に送り続けている。返送されないところをみると、一応は届いているのだろう。社会人になってから、返事は一度も無かった。

 これ以上記憶が蘇ってきては、本当に気分が塞いでしまう。
 その前にと、意を決して歩調を速めた。足元などとうにびしゃびしゃだ。濡れることなど気にせず大股で歩く。やってみればなんてことの無いことだったのだと、いつもやってみてから気がつくのだ。
 今の会社で働き始めたときもそうだった。応募をする前から、自分に務まるのだろうかと不安になって、それ以前にきっと採用の連絡は来ないものだと思っていた。

 明日も雨ならば、思い切って仕事を休んでしまおう。布団を被って好きな音楽を聴きながら好きな本を読むのだ。

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